勝つことは、人を止める。
負けることは、人を進める。
勝つと慢心が生まれる。
負けると次につなげようと努力する。
負けることは恥ではありません。負けて負けて進んでいきましょう。
柳生 宗嚴、大永7年(1527年) 慶長11年4月19日(1606年5月25日))は、剣術の新陰流継承者で、官位は但馬守。1563年(永禄6年)、新陰流の上泉信綱と出会い、試合を申し込んだが、宗厳は信綱どころか、彼の弟子・疋田景兼にすら勝てなかった。このため、宗厳は己の未熟さを悟って即座に弟子入りし、1565年(永禄8年8月)に皆伝印可、1571年(元亀2年3月~6月まで)滞在していた信綱から一国一人の印可を受けるにまでいたった。そして、新陰流を継承するに至った。1594年(文禄3年5月)、京都鷹が峰、御小屋で徳川家康に招かれ家康本人を相手にして無刀取りの術技を示した。そして剣術指南役として出仕を請われたが、宗厳は老齢を理由に辞退し、代わりに五男の宗矩を推挙した。後に柳生に500石の所領を受けた。墓所は奈良市の芳徳寺。法名は「芳徳院殿故但州刺史荘雲宗厳居士」。