たとえ素質があっても、スピリットや自己犠牲、多くの我慢を許容できなければ成功を収めるのは難しい。
才能だけでは生きていけない。
才能だけで勝負できるのはほんの数年間。
スポーツの世界でも一気に消える選手は多いですよね。
ブラジル出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはMF(ボランチ)。ブラジル代表選手として1990年、1994年、1998年のワールドカップに出場した。2006年7月から2010年7月まで代表監督(第1期)を務めた。1995年から日本のジュビロ磐田に所属した。ドゥンガ入団後、ジュピロ磐田の成績は目覚しい伸びを見せ、鹿島との2強時代を作った。ジュピロ磐田にドゥンガが入団した当初、磐田の若手は口うるさいドゥンガを敬遠し、中山と勝矢くらいしか親しい選手がいなかった。しかし、ワールドカップでドゥンガがベベトやロナウド、カフーといったセレソンの大物をガンガン怒鳴りつけているのを見て、「大物たちも怒鳴られているから、自分たちも怒鳴られるのが当たり前」ということを聞くようになったという。派手なタイプの選手ではなく足も速くないが、フィジカルが強く、危機察知能力に長け、長短織り交ぜた正確なパスでゲームの流れをコントロールした。
本人は著書で危機察知能力に長けていると自負していた。守備能力やリーダーシップに対して足元の技術は大雑把と想像しがちだが、1998年ワールドカップではFKのキッカーを務めていた。W杯のPK戦では94年アメリカ大会決勝のイタリア戦、98年フランス大会準決勝のオランダ戦でいずれもブラジルの4番目のキッカーとして登場しブラジルの勝利に貢献している。また筋肉番付(TBSテレビ)の「キックターゲット」で最初のパーフェクト達成者でもある。94年W杯ではマウロシルバと中盤の底を担い、日本におけるダブルボランチという用語の知名度を高めた。気が強くとても負けず嫌いであり、味方が少しでも気の抜いた(怠慢な)プレーやミスをすると烈火の如く怒り始める。「鬼軍曹」といわれるのはそこに由来する。この性格をあまり快く思っていない選手もいたが、本人もチームのためにとあえてやっていた所があり(本人によれば、自分がミスが多い時も必死に気持ちを抑え、周りには言いつづけたという)、代表には不可欠な選手(憎まれ役)だった。不慣れな右サイドバックに挑戦していた今野章に、ハーフタイム中ポジショニングの講義を始めた映像がサッカー番組でドゥンガを扱う時に頻繁に使用され、一時おなじみとなっていた。山西尊裕がフリーキックを蹴ろうとしたとき、邪魔だと突き飛ばしたことがある。磐田でのチームメイトだった福西崇史は「今思い出しても、やたらに口うるさいオヤジだった」と発言している。